障害?障害者?
障害・障害者とは
とつぜんですが、”障害・障害者”・”障碍・障碍者”・”障がい・障がい者”と
バラバラな表記がされているのを見かけたことがありませんか。
これらには、”害”の字の持つイメージがよくない、
障害者に”害”があるような印象をもつ、など、
書いた人の考え方が反映されているのですが
HI-FIVEでは”障害”の表記をあえて”障害”のままとしています。
その理由について、ちょっと長くなりましたが、書いてみました。
障害者という言葉を聞いて、どんな人が思い浮かぶでしょう。
耳が聞こえない人?
目が見えない人?
車椅子に乗っている人?
読み書きができない人?
コミュニケーションができない人?
障害と一言で言っても、さまざまなとらえ方があります。
医学的な角度、福祉的な角度、教育的な角度・・・。
または、日本、アメリカ、スウェーデン、アフリカ・・・。
それぞれでとらえかたが微妙に異なります。
ただ、どのとらえ方においても共通しているのは、障害者というのは、
”(大多数の人に向けてつくられた)現在の社会のしくみやつくりのままでは、
生活する上で、本人の努力だけではどうにもならない困難さがある人。”
ということです。
たった30年の変化
”現代の社会のしくみやつくりのままでは”
という点と
”本人の努力だけではどうにもならない”
について考えてみましょう。
30〜40年前、1980〜90年代を思い浮かべてください。
・一部の都心をのぞけば、ほとんどの駅にはエレベータはなく、ホームではどこでも喫煙OK。
・商店には入り口に段差があり、スロープや身障者スペースの駐車場もない。
・親の介護は子供を中心とした家族が行うことが基本。
・障害のある子供たちは学校では教育というよりも遊ぶこと、安全にすごすことが主体。
・仕事を自宅で行うことは一部の内職などをのぞき稀で、原則は職場に出勤する。多くの場合は公共交通機関を使う。
・書類は手書きが基本。ワープロなどが徐々に出始める。コンピュータは平均月収を超える価格。
・ネット通信は一般家庭では皆無。FAXがようやく一般家庭にも普及し始める。
・電話は職場、家電、公衆電話。ポケットベルを持つ人が90年台前半から増加。
・切符の料金や時刻表は最寄駅で調べるか、書店で購入。
・メディアはテレビ・新聞・ラジオ。
・自動車はMT車率がまだ高い。AT限定免許もない。
・MRIなどの画像診断技術もなく、総合病院にはやっとCTが配備され始める。
今からこの時代に戻ったとして、ほとんどの人にとっては、
「不便だとまあ暮らせなくはない。」
といった感じでしょうか。それとも、想像もできないでしょうか。
これらは、必ずしも障害者に向けて変化したわけではありませんが、
結果的に、障害がある人たちが少しずつ、暮らしやすくなってきていることに気づくと思います。
社会の仕組みが変化することで、障害が少し、小さくなった、と言えます。
(反対に、社会の仕組みが変化することで、障害となるものが増えるケースもあります。)
また、多くの場合は、テクノロジーの進歩により、その障害を小さくできることも、
お気づきになったはずです。
障害がどこにあるか
足を全く動かせない障害があり、自分では歩行できない人がいたとします。
現代の医療では、彼の足を健常者と同様に動かせるようにはなりません。
”歩行”、あるいは彼の身体にだけ着目すると、彼の障害は30年前も今も大きくは変わっていません。
けれど、”移動”という観点で見ると、車椅子、あるいは電動車椅子で、自由に移動できる場所は、
(まだまだ不十分ではありますが)この30年で大きく広がったことがわかります。
福祉サービスも30年前より拡大しています。
彼の”移動”に対する”障害”は、たった30年前と比べても、小さくなった、といえます。
彼自身はの身体はなんら変化していなくても、です。
自由に移動ができる場所が増えれば、買い物や仕事、スポーツ、レジャーなどの活動範囲も広がります。
当たり前に電動車椅子の人を学校や職場、街で見かけるようになると、
周囲の理解も当然、広まります。
飲食店や商店をしている人ならば、それだけ「お客さん候補(≒ニーズ)」が増えたとも言えます。
ニーズが増えた市場は、さらに発展していくことが自然の流れです。
30年前と現在とで、変化したのは、環境とテクノロジー、そして社会です。
つまり、障害は、その人自身の身体にあったのではなく、
駅の階段であり、商店の段差であり、歩道の狭さであり、周囲の理解のなさ、にあったといえます。
その”障害”は、私やあなたも含めた、周りの意識と理解の深まり、
さらには環境の変化や・技術の進歩で小さくできる。
だからHI-FIVEでは、あえて”障害・障害者”という表記をしています。
(視覚障害者の読み上げソフトや表記のちがいによる混乱を防ぐ意味もあります。)
近い将来、メガネをかけている人たちと同様の感覚で、足の不自由な人たちが車椅子などをつかって、
自由に出かけられる社会になれば、彼らの”移動に対する障害”は、なくなってしまうかもしれません。
きっとそういう日がくると信じています。そしてそんな社会になるかどうかは、
私たち一人一人にかかっている、ということも忘れてはいけません。